豪華客船の旅

ちょうど2年前の今頃、北欧で一人旅をした。
ちょうど2年前の今日、ヘルシンキからストックホルムへ船で渡った。

15時間のその旅は、船に弱い私には非常に辛いものだったが、他の乗客は驚くほど元気だった。上船後、多くの乗客が一張羅に着替え、食べて飲んで歌って踊って、夜を越える船旅を楽しんでいた。私にとっては宿も兼ねた移動手段だったのだが、彼らの目的はまさに「船に乗る」ことだったようだ。「豪華客船」と呼ばれる船の空気は確かに少し変わっていて、ただでさえフラフラの私は、まるで異次元空間に迷い込んだような、そんな錯覚に陥った。

老若男女が着飾って
豪華客船の旅に出る
国境も、時をも越えた魔法の空間へ

夢から覚めれば
故郷の道を、異国の土地を
踏んでいるだろう

だがこのひと時は
揺りかごの中を闊歩する
少し気取って、よろめいて

閉所恐怖症

少し前にMRIの検査を受けた。初めての経験だったが、検査前に何度も「閉所恐怖症ではないですか?」と訊かれた。あまりにも繰り返し訊かれるので、「違います」と答えながらも少し不安になった。

検査室に足を踏み入れた瞬間、どうしてそう何度も訊かれたのかがわかった。寝台の向こうにあるのは、人ひとりがやっと入るぐらいの大きさの筒型をした機械だった。

閉所恐怖症とまではいかないが、狭いところや囲われたところ、混み合ったところはあまり好きではない。まあ、閉所が大好き!という人はあまりいないだろうが、どちらかと言えば自分は少し神経質なほうだと思う。

例えば、これは意外とよくあることなのだが、空いている電車の中で人がすぐ傍に立つことがある。そうすると、もう居ても立ってもいられない。「空いているのになぜわざわざ傍に立つのか」とすぐイライラしてしまい、「先に私がいたのに!」とブツブツと独り言ちながら、空いているスペースへと移動する。「イライラ損」だとはわかっていながらも、避けられない。

自然は大好きだが、公園はあまり好きではない。もちろん公園と言ってもいろんな大きさの公園があり、どこかの国立公園のように広大な規模のものであれば全く問題ない。だが、例えば近所の「臨試の森公園」や原宿の「代々木公園」のように、目に見えて限りのあるサイズの公園はそこまで得意ではない。どこか「囲われた」気持ちになり、これまた落ち着かない。かなり妄想気味なのは自分でもわかっているが、こればかりはどうしようもない。だから、ジョギングをするときは街中を走る。すぐ傍に緑の公園があるにもかかわらず、排気ガスを胸いっぱい吸い込みながら、街中を駆け抜ける。身体に悪いだろうなあ。

逆に、「自分のもの」と意識しているものは、何が何でも囲いたくなる。例えば、自分のものを他人に勝手にいじられるのは幼い頃から我慢ならない。自分に許可を請うてくれれば問題ないのだが、断りなく触られると「ムキー」とヒスをおこす。

「分かち合う精神」も極めて低い。「分かち合う」といっても、「あんたの取り分はこれだけね」と決めて分けるのは全く問題がない。問題なのは取り分が決まっていない「ランダムな分かち合い」だ。従って「大皿から食べ物を分かち合う」のも実は得意ではない。取り分が決まってないと、なぜか非常に焦ってしまう。「はやく取らないと、たくさん食べないと」と、ムキになり、結果他人に迷惑をかけることになる。私がどこまでも横方向に成長し、弟がスリムな少年時代を過ごしたのは、これが理由でもある。これを読んでいる友人の中にも、この被害にあった人は多いだろう。食べ物の恨みは恐いから、被害者の皆さんにはこの場を借りて謝っておこう。「ごめんね♪」

私なりの定義では、「自分のもの」には「意思あるもの」は含まれない。自分が絶対に囲われたくないから、自分以外の「意思あるもの」も絶対に囲いたくない。だから、「ペットを飼う」というアイデアは、あまり私向きではない。友人の多くはペット愛好家であり、これを読んだそれらの友人からは今後白い眼で見られるだろうことを覚悟で言う。
ペットは私向きではない。

こんなことをペット愛好家の友人に言ったら、こう訊かれた。
「じゃあ観葉植物はいいの?」

「…え?」
この質問はかなりショックだった。狭き我が家には鉢植えの植物がいくつかあり、毎日話しかけて、それはそれは大事に育てている。それを知りながらこんな質問をするとは、敵も然る者!

それからというもの、この問題は私にとって深刻な悩みである。

観葉植物は「意思あるもの」にはいるのかなあ?

You make me feel...

大好きな歌手のひとりにCarole Kingがいる。彼女のラフでちょっと甘い声が好きだ。ガッツがあり、そして優しい。なんとなく家に帰ってきたような、そんなほっとした気持ちにしてくれる。好きな曲はたくさんあるが、中でも特に好きな曲のひとつに『Natural Woman』がある。(以下歌詞抜粋)

♪♪♪
Lookin' out on the morning rain
I used to feel uninspired
And when I knew I had to face another day
Lord, it made me feel so tired

Before the day I met you, life was so unkind
But your love was the key to my peace of mind

'Cause you make me feel
You make me feel
You make me feel like
A natural woman
♪♪♪

ある別れを経験したとき、ふと気付いたことがあった。
「あれ、私って女だったんだ!」

あまりにも当たり前のことなのだが、無性に嬉しかった。それまで見失っていた自分の一部を再発見したような、そんなかんじがした。「男と付き合って女になる」というのはわかる気がするが、まさかその逆の「男と別れて女になる」ことがあろうとは!

どんな関係もそうなのだろうが、男女関係もまた時を経て変化する。出会った頃のドキドキがいつまでも同じように続くことはないだろうし、何十年も寄り添って培われる持ちつ持たれつのマリネのような関係もまた、付き合い始めの二人にはありえない。私たちが年を重ねるように、関係もまた変化し進化する。

だが、時を経ても変わらないものがある。それは、いくつになっても私が「私」であるように、私が「女」であるということ。どんなにがらっぱちだろうが、大食いだろうが、化粧っ気がなかろうが、ガニの大股で歩こうが、私は「女」なのだ。

意識してもしなくてもこの事実は変わることはない。だったら意識する必要はないじゃないかと言えばそれまでなのだが、それは極端に言ってしまえば、「寝てても起きてても生きてるんだったら寝てればいい」というようなものだ。「私」が時と共にパワーアップするように、私の中の「女」もパワーアップする、そうであって欲しい。

植物の成長に陽の光が欠かせないように、私たちには人との関係が欠かせない。友人関係、親子関係、男女関係、同僚関係…いろんな関係が、「私」の成長に不可欠な肥料となっている。ひとりのパートナーと連れ添って人生を歩んでいく場合、その人は自分にとって一番の肥料となる。その肥料は「私」の成長を促し、私の中の「女」を刺激する。

そう考えると、「女」であることを見失っていた、そんな関係ってあんまりじゃあないか!と思う。肥料はもはや肥料でなくなり、女は女であることを忘れ成長は止まる―
う〜ん、書いている自分でもうつむき加減になってしまうほど、これって好ましくないじゃないか!

肥料にもいろいろと種類がある。「私」の中の、特に「知性」に効くインテリな肥料もあれば、「食欲」に効くグルメな肥料、「肉体」に効くマッチョな肥料、そして「性(=女)」に効く艶ある肥料もある。やっぱり一番好ましいのはバランスの取れた「総合肥料」で、いろんな要素に効いて欲しい。人間欲張りなものである。しかし、これはとても大事なことなのではないか。もちろん全ての要素にまんべんなく効く肥料なんて、どんなに大きなホームセンターに行ってもなかなか置いてないし、肥料探しでエネルギーを消耗してしまったらそれこそ本末転倒だ。だが、「自分にとって一番バランスよい肥料」、これは重要である。

もちろん上手くいかないことの全てを肥料のせいにはできない(できたら楽でよいが)。なんと言っても植物そのものの生命力が一番重要である。だがそれでも、光、水、肥料といった栄養素はなくてはならないものである。「女」であることを忘れていた私は、自らの生命力が弱っている上にバランスよい肥料が欠けている、まさに「泣きっ面に蜂」状態だった。

Carole Kingのこの歌を聴くと、ちょっと酸っぱいこんな経験を思い出す。そして、時を経てなお自分が「自分」であることを自然と感じ合うことのできる、そんな関係は素敵だなあと思う。

♪♪♪
Oh, baby, what you've done to me
You make me feel so good inside
And I just want to be close to you
You make me feel so alive

You make me feel
You make me feel
You make me feel like
A natural woman
♪♪♪

弟よ2

5歳の頃、弟を妊娠していた母は私に聞いた。「Taeちゃん、妹が欲しいの?弟が欲しいの?」私は迷わず答えた。「お姉ちゃんが欲しい!」

その頃の私は100%お姉ちゃんに憧れていた。保育園で仲のよいトモちゃんも、千代ちゃんも、お姉ちゃんがいた。ラーメン屋のススムにだってお姉ちゃんがいた。お姉ちゃんはすごいのだ。ピアノを教えてくれたり、髪を結ってくれたり、一緒に着せ替えごっこをしてくれたりするのだ。だから、生まれてくるのがお姉ちゃんであれと心から願った。

だが、蓋を開けてみれば出てきたのは「猿の惑星」出身の弟だった。

しかし子供というのはなんと順応性が高いのだろう。あんなにお姉ちゃんが欲しかった私は、弟の誕生にすぐに適応し、すんなりと自らが憧れのお姉ちゃんとなった。実際、姉であることは悪くなかった。いや、悪くないどころか、生まれてきたのが「お姉ちゃん」だったら、そしてその「お姉ちゃん」が私のような人物だったら、私にとっては非常に困った事態となっていた。

なぜって…

―仲間はずれ
オママゴトに入れてあげない

―脅し
「○○しないとぶつよ」

―DV1
突き飛ばして釘を踏ませた(→病院行き)

―DV2
「三輪車に乗せてあげるね〜」といって無理やり一緒に乗せて思いっきり転んだ(→大たんこぶ)

―DV3
泣いて嫌がるのに自分のドレスを着させ、母のネックレスとイヤリングをつけさせ写真撮影した(姉の満足度100%、弟の傷心度200%)

あいやいやい、君もよく耐えたね、弟よ!

弟よ

私には6歳年下の弟がいる。ここ数年は二人とも実家から離れて暮らしておりあまり頻繁に会う機会もないのだが、たまに実家を訪れたときに偶然相手も帰省していて顔を合わせることがある。6歳の差とは意外と大きいものだ。弟が生まれると私は小学校に入学、弟が小学校に上がると私は中学に、弟が中学に上がると私は大学に、といった具合だ。幼い私は弟のオシメを換えたり、おぶって散歩してやったり、ミルクをあげたり(注:哺乳瓶)、それはそれは思い返すだけで涙ぐましい「おしん」のような少女時代だった。

そんなわけで、6歳も年の違う相手に自分と同じレベルの会話を求めるのはお互い無理な話なのだが、それを求めてしまうのは姉の悪いクセである。姉の試みによって始まる二人の会話はどこかで食い違い、かなりの確立で言い争いに発展してしまう。相手はまだ大学生とはいえ、お互い成人した身。もう少し歩み寄って「大人の会話」ができないものだろうか。

いや、もしかするとこの問題は「年の差」によるものではないかもしれない。離婚の理由ナンバーワンの「和解しがたい性格の不一致」というやつかもしれない。そうなると歩みよりは難しいが、逆に言うと歩み寄る必要はないのではないか。なにしろ「和解しがたい性格の不一致」が二人を隔てているのだから。

考えてみれば、幼い頃から二人はまるで別の惑星(相手は「猿の惑星」)から来たように性格が違っていた。そこで、そんな二人の「和解しがたい性格の不一致」を子供時代の記憶と親から聞いた話からケーススタディしてみた。

子供の頃:

―怖い顔をして脅かすと
私:泣いた
弟:爪を立てて相手の顔をギャッと引っかいた

―マイクを渡すと
私:しっかり握って離さない。次の歌い手が待っていようが構わず歌う
弟:それまで大声で歌っていたのに、急に小さくなって机の下にもぐってしまう

―おもちゃを買ってもらえないと
私:駄々はこねるが、あきらめる
弟:道に大の字に寝転がり、いつまでも大声で泣きわめく(←非常に迷惑)

―外国人とのはじめての交流
私:ガムをあげた
弟:ショックのあまり「キィ〜ッ」と奇声を上げ柱を登った(←これも非常に迷惑)

―補助輪なしの自転車
私:親に監督してもらい、転んで泣きながらしぶとく練習した(執念の女)
弟:親が気付いたときには涼しい顔して乗っていた

―授業参観で
私:真っ先に手を上げる。「先生、私をあてて!」
弟:先生に見えないように机の下で消しゴムを削る(←親には丸見え)

―おねしょすると
私:親に謝り自らシーツを換えた
弟:そ知らぬ顔して親の布団にもぐり込みそこで再度おねしょした。(別名小便太郎)

―親に怒られると
私:泣いて謝った
弟:「こんな家には住んでいられない」と言って家出した

…おお、こんなにも違うのか、弟よ!これじゃあ「和解しがたい性格の不一致」なはずだよ。

6歳の私に起こったこの世で一番素晴らしい出来事は、弟ができたことだった。

火の用心

木枯らしがふく季節になり、今年もまた町内会の「火の用心パトロール」がはじまった。毎晩10時を過ぎると、2人〜3人が組になって木を打ちながら町内をパトロールするのだ。集合住宅に住む私は町内会に属しておらず、よってパトロール当番にも参加していないのだが、毎晩家の中からパトロールを楽しませてもらっている。

パトロールは組によってそれぞれ個性的だ。ただシンプルに木を打つだけの組もあれば、元気に「ひぃのぉぉ〜よぉ〜〜じんっ!」とやるにぎやかな組もある。元気はあるのだが二人の声が合わないズッコケチームもあるし、声はいいのに木を打つ音が鈍っていたり、その逆もある。

いずれにしても、遠くのほうからパトロールの音が聞こえてくると、「お、今日も来たぞ!」と、自然と頬がゆるんでしまう。音はだんだん大きくなり、家の前を通り過ぎ、また遠くへと小さくなる。

今晩は帰りが遅くなり、ちょうど帰宅途中にパトロール隊とすれ違った。本日の当番は、いかにも「奥さんに行かされた」といった風貌の肩の下がった50才前後の男性だった。相棒とはちょっと離れて歩いている。パフォーマンスはといえば、かけ声なしで木を打つだけ。それもちょっと的がはずれたような「くぁん、くぁんくぁん」という頼りない音だった。

この肩の下がったお父さんの姿と、その木を打つ力ない音に、今日も私の頬は思い切りゆるんでしまった。
「お父さん、thumbs-up!ありがとよ〜」と心で言った。
お父さんは、「くぁん、くぁんくぁん」と答えた。

寒い寒い冬には、こんな「暖」もある。

真珠の首飾り

「人生で経験するひとつひとつの事柄は、その時はひとつの点でしかないけれど、時間が経って振り返ったときには点と点がつながり線になっている」

アップルコンピューターのスティーブ・ジョブス氏のスピーチはじめ、これまで幾度となく繰り返されてきた格言(?)ではないだろうか。

この言葉を耳にするごとに、大学時代、美術史の教授がこれをとても美しく喩えてくれたことを思い出す。

「ひとつひとつの出来事は、喩えて言えば真珠の粒なのです。年を重ねるごとに、一粒、また一粒と増えていき、やがて美しい首飾りになるのです」

今でも思い出すたびに、なんて美しいことを言うんだろう、と、あたたかな気持ちになる。

あの教授はお元気でいらっしゃるだろうか。
とても気さくで穏やかな、気品に満ちた方だった。

「My date with Drew」

久しぶりに映画を観に行った。「My date with Drew」という題のドキュメンタリーだ。幼い頃から女優ドリュー・バリモアの大ファンという若者が、予算1,100ドル、期限30日という条件で「ドリューとデートする」という夢を実現させなければならない。

結果は観てのお楽しみだが、観終わって後味は悪くない。「ドリュー・バリモアとデートすることになぜそんなにこだわるのか?」と問うてしまえばそこまでだが、映画のメッセージはそこにあるわけではない。夢を(しつこくどこまでも!)追いかけ、実現するために努力することの大切さを描いている。夢が馬鹿げていればいるほど、そこまで一生懸命に頑張る主人公の熱意は浮き彫りになる。そして映画の始まりでは、「なーんでこんなことにエネルギー使うの?」と感じていた観客も、話が進むにつれ目標達成のために東奔西走する主人公を手に汗を握りながら応援していることに気付く。

夢を持ち、それに向かってがむしゃらに突っ走る姿を見るのは、決して悪いものじゃない。

What took me so long?

ある映画で、主人公の男女のやり取りにこんなのがある。
別れた二人がよりを戻す話だが、別れてから月日を経たある日、ひょっこり彼の元に彼女が現れる。

お互い強く惹かれ合い愛し合っていながら、なぜもっとはやく戻ってこなかったのかと彼は彼女に問う。「交通渋滞」の研究者である彼のそんな質問に、彼女は小粋な答えを返す。

男: "What took you so long?"
  (「どうしてこんなに時間がかかったの?」)
女: "I was stuck in traffic."
  (「渋滞にはまってしまったの」)

自分にとって大事なことはなんだか自分が一番わかっているのに、変化を起こすことができるのは自分なのに、それを認めるのにうんと時間がかかってしまうことがある。奇跡が起こるのをただただ待ってしまうことがある。

長い長い冬眠期間を経てやっと前に進める心境になった私も、最近自分に問いかける。

"What took me so long?"

映画の彼女のような粋な答えはできないけれど、とにかくこんな質問を自分にできるようになったことが嬉しい。

直進と曲がり道、平坦な道と坂が混ざり合う。
人生って不思議だな。

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